片山流神武之会は、片山流居合剣術の技法を今日に保存し、古流伝承に努めています。

自臨伝(第三巻)

自臨伝(46)その場の諸道具みな自分の具足となるゆえに小具足と言う。

その場の諸道具みな自分の具足となるゆえに小具足とは言う (幣帚自臨伝 巻三 小具足(こぐそく))
・その場の諸道具…すべて自分の具足となるので…小具足と言う

群衆雑居の場所においては、必ず事の起こるものであるので、このような場所にあっては、座席路地にぬかりなく変のまだおこる前より、その場の諸道具、大小長短その場その場の便利性を考え、手に近く取りやすいものなどに気を配って配置しておくことは、すべて自分の具足となるゆえに、真の具足に対して小具足とは言うことなのです。

そうであれば、刃(やいば)はたやすく用いてはいけないことになり、事が急に起こったときには別の所の道具をもって収めようとして立ち退いてはいけない。その座にある道具で取り治めるべきである。そうであれば、常々に眼を配って衆に選んで味方として、他方に道具に目印して具足とすることこそ武人の心得です。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(47)欲を出して人の物を奪おうとするから刃傷におよぶ

「愚かなるものの癖としては、…慾心を以て人の物を奪わんとするより刃にも及びける」(幣帚自臨伝 巻三 柄留(つかどめ)
・愚かな者の癖として、欲を出して人の物を奪おうとすることより刃傷におよぶ

自分が手に取って用いるところは柄です。その柄を収めておれば刃傷に及ぶことはありません。しかし自分の油断で刀を奪われ、自分の物で自分を滅ぼすことが愚かな者に多いのは、悔しいことの究極ではないでしょうか。

自分が油断をして刀を敵に奪われ、欲を出して人の物を奪おうとするから刃傷におよぶのです。自分が用心して柄で敵を治めれば、その隙に入れる者はいません。自分が用心して敵に応じることが速やかであれば、世の中を治めることも容易です。そうすれば事は柄で治まり刃傷には至りません。敵が自分を襲っても、何のことなく取り治める方法を柄留と名づけたのです。難きに受けて易きに答える、堅固に守って速やかに応じる業です。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(48)腰の回りは自分が人を治める道である

腰回は己より人を治るの道として…名目を附け置くなり(幣帚自臨伝 巻三 腰廻(こしのまわり))
・腰の回りは自分が人を治める道として名前を付けておく

武人が平生に忘れてはならないことは自分の腰の回りです。「腰」は常に用心する場所を意味し、「回(まわり)」とは自分を起点として事が回り起こることを意味します。つまり自分から事が起こらないように、用心すべきところを大事にすることです。武人は常に自分の腰回を忘れず、もし何かが起こった時には、どのような理由でこのような事が起こったのかをまず思案することです。

悪事を取り締まり、防ぐ道具である刀は、剣の両刃の理屈を自他に示す武器であり、大刀は君主を助けるものであり、脇差は自分に誤りがあるときに脇腹を刺すものです。性急であることは君父を忘れやすく、短慮は前功をないものとしてしまいます。ひと時の怒りに身を失う輩はそもそも武士ではなく、大事を図るには足らない者です。このことから、腰回(こしのまわり)は自分が人を治める道であり、柄留(つかどめ)は人が仕掛けてくる妨害を治めるということです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(49)迷う心があるために惑わされる

迷う心のあるゆえに惑わさるるの己もあれ(幣帚自臨伝 巻三 軍中組撃(ぐんちゅうくみうち)
・迷う心があるがゆえに惑わされる自分がある。

迷う心があるために惑わされる自分があるのですから、常に慎むべきことは自分の心です。この心が据わらないのは、気の養いが足らないことによります。その気は平生の努力によって、事に当たってその動きに違いがでます。

常に休むことなく、よく努力し、よく身につけ、その行いに習熟したところがあれば、たとえ三軍の三万七千五百人(全軍)の中に立っても、気を多勢に奪われることはないといいます。もし気の養いが足らない者は、集中する心を失って勝つべき時を失い、居るべき場を去り、撃つべき敵を逃すばかりでなく、身分相応の武具も奪い取られて、自分で自らを害することにもなるのです。組撃とは勝負を速やかに決する為にあるのに、組んで勝負が長くなるのは武人の耻辱でこれに過ぎるものはありません。必ず上手に組んで利き手で敵の首を脇の下に巻き込み、自分の左手で敵の利き手を止めることです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(50)役を担って忠なき者は必ず落ち度も多い

役を荷うて忠なきものは必ず越度も稠(しげ)きものなり(幣帚自臨伝 巻三 馬上組撃首取様事(ばじょうのくみうちくびとりようのこと))
・役を担って忠なき者は必ず落ち度も多いものである。

 役を担って忠のない者は必ず落ち度も多いものです。忠に深い者は同じ役割を選ぶといいます。もしその役の長に不忠で軽薄な者がいるときは、早くその役から退くことです。役を退くことができなければ、この役とともに身を滅ぼすことになります。難しいことを不忠の者に任せてはいけません。これは不忠になります。自分が難しいことを引き受けて、この者には最も易しいことを任すことです。

 上下が調和しないのを滅ぶ国とするのがよい。だから馬上の者は馬を傷つけないことが第一です。人馬が一体となって動きが自由になるのですから、逆に敵を滅ぼすときは敵の馬を傷つければいいのです。馬の首を切る。敵の手綱を切る。そうすれば人馬は一体とならず敵は思いのままになりません。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(51)立つべきでない地に立たず、立つべき場に立つ

「立つべからざる地に立たず、立つべき場に立つ(幣帚自臨伝 巻三 極意(ごくい))
・立つべきでない地に立たず、立つべき場に立つ。

 立つべきでない地に立たず、立つべき場に立つことを位(くらい、場・身分)と言います。義(正しい道)を守らず自分の場を超え、人の地に立つ者は危ない道を好みます。その危なさを好む者の最後は安らかではありません。理(道理)を理解しない人は、自分の地を奪われても取り返す方法を知らず、居場所がない者は迷うことに病み、迷うことに病む者は最後には惑うのです。

本来、人が出会うとき、必ず主と客の立場があります。超えず越されず、奪わず奪われず、自分の立つべき地を明らかにして、ことに当たって過不足がない者を自分の位をよく極めた者と言うのではないでしょうか。自然と許されて立つべき場があるのがそれぞれの位です。相手がいて、それに相応する場に居ることを位と定めるべきです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe

自臨伝(52) 人を制圧する時は、悪人を分離するのが勝ちである

都て人を制する上は、悪人を分けるぞ勝ちなるべし」(幣帚自臨伝 巻三 向二方(むこうにほう))
・おおよそ人を制圧する時は、悪人を分離するのが勝ちである。

人間に関するすべてのことは、自然の法則に反することはありません。例えば、同時に二つの方向から風が吹くことはありませんが、一方向から吹いた風が三方向に吹き散ることはあります。一つのことに集中して取り組む人は、二心(ふたごころ)がなく、地位にこだわらないので、二心(ふたごころ)があり地位にこだわる人を簡単に混乱させることができます。

人を制圧するには、悪人(敵)を分断するのが有効です。なぜなら、悪人は集団を作りやすい性質を持っているからです。そもそも悪人は、約束をしても自分が不利になるとすぐに約束を破り、人に害を与えます。このような場合、自分の立ち位置をしっかりと定め、敵が二つに分かれるのを待ち、正面から対応することが重要です。自分の立ち位置を失わなければ、敵が多くても一人の敵と同じです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(53) 犯し奪う事のないことを治国平天下という

「犯し奪うの事なきを治国平天下とは云うならめ」(幣帚自臨伝 巻三 脇二方(わきにほう)
・犯し奪うの事なきを治国平天下という

私という存在があるためには、物という存在が不可欠です。しかし、私には私の立場があり、物にも物の立場があります。これらが互いに侵害し合うことなく調和する状態こそ、治国平天下(国を治め、天下を平定すること)といえます。とはいえ、物と私の関係が長く続くと、境界が曖昧になり、無意識のうちに侵すこともあります。隣国との関係を疎かにすることこそ、平穏が続く中での最大の過ちです。

全軍を自由に指揮する強力な将軍であっても、備えを怠り、守りを失って隣国に敵を迎えるようなことがあれば、何もできなくなります。優れた者は常に自らの立場を明確にし、隣国との関係を良好に保ちながら、日々その守りを固めます。もし天変地異に乗じて侵略を試みる者が現れた場合、即座に対応します。このように、常に油断なく備えているからこそ、迅速な対応が可能なのです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(54)自分を知り、自分の場を知り、自分の時機を知らなければ物の中心を知ることは難しい

「先ず己を知って、次に己の場を知り、己の時を知るにあらざれば、物の中(あたり)を知る事かたかるべし(幣帚自臨伝 巻三 中上中下(あたりじょうちゅうげ)
・自分を知り、次に自分の場を知り、自分の時を知らなければ、物の中心を知る事は難しいだろう。

まず自分自身を知り、次に自分の立場を知り、自分の時機を知ることができなければ、物事の(あたり、中心)を理解することは難しいでしょう。いわゆる(あたり)は聞いて理解できるかもしれませんが、その物事に中(当)る際に、(あたり)に当たらなければ、中(当)ったとは言えないのです。その物事にどうやって当たるかというと、まず人を知り、次に人の立場を知り、人の時機を知るべきです。

まず人を知るとはどういうことかというと、人にはがあり、自分にもがあります。を攻めるのにを使い、を攻めるのにを使うときは、当たったと言っても当たっていません。人に自分の虚陰(弱点)を見せて自分の虚陰(弱点)を大きく思わせて油断を誘うのは、まず自分を知らないからです。自分自身は自分に隠し事はありません。自分が問えば自分自身が答え、自分が行えば自分自身が分かることなので、自分が自分自身を知ることは難しくありません。この簡単な自分のことすら知ろうとしないのに、どうして知りにくい敵をよく知るという難しいことができるでしょうか。よく自分を知った後に相手の隅々にまで当たることです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(55) 上下を一つにまとめず平和を保つ道はない

上下を一統にする事を罷けて別に治平をなすの道なし」(幣帚自臨伝 巻三 馬上抜(ばじょうのぬき)
・上下を一つにまとめることなく、治世を平和に保つ道はありません。

将軍や兵士の一人の名誉を求めると、すぐに天の道に背き、結局は上下を統治することができなくなります。上下を一つにまとめることなく、治世を平和に保つ道はありません。馬上で太刀を抜く者は、まず馬にそれを知らせてから抜くべきで、馬を驚かせてはなりません。馬を驚かせると、馬は従わなくなり、それは自分の過失です。上に立つ者は、下の者の心を理解し、彼らの功績を褒め、できないことを教え、上下を一つにまとめることが重要です。

下の者は上の命令に従うべきですが、身分の低い人は、身分の高い人と同じような育ち方をしていないので、幼少期から道を教える師を選ばず、学ぶ時間もなく、日々の生活にも困窮して年を重ねます。そのため、知恵や能力も劣り、何かを命じられても思うように遂行できません。このことを理解せずに、むやみに命令を出すと、意図しない失敗を引き起こします。

自臨伝(56) 立派な風格が広まると、つまらぬ悪習は廃れる

「君子の風(ふう)や行われて小人(しょうじん)の俗や偃(のえふ)す」(幣帚自臨伝 巻三 霞惣追風(かすみそうまくり))
・立派な人の風格が広まると、つまらない人の悪習が廃れる。

地面をしっかりと踏む者がいるなら、その人が立つ場所がその人の位にふさわしい場所です。もし位を得ても保てない者がいるなら、足を上げれば虎はどうして安穏にいることができるでしょうか。その位が広い者は、動けば他の位をも犯します。その位が狭いければ、ともすれば自分の位をも奪われるでしょう。これは両方が共に位を得ていないからです。このように、よくその位を保つ者は、雲や霞が空にあるようなものです。行く所でその美しさを表さないことはなく、去るときにその跡を残すこともありません。

その跡に何も残らないのは、一瞬に変わるからです。迎えず、送らず、止まらず、強制せず、侵さず、奪われず、よくその位を保つ者は、他を知り、場を知り、時を知って、一瞬に変わって美しいのです。誰がこのようなことをよくできるでしょうか。自分を知ること、これが先である者がこれを成すことができるのです。治まらないことがなく、勝たないことがなく、天下に敵がいない。立派な人の風格が広まると、つまらない人の悪習が廃れるのです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(57) 目の良い者がかえって井戸に落ちる

明眼の者却って井に落つる(幣帚自臨伝 巻三 闇之屋捜(やみのやさぐり)
・目の良い者がかえって井戸に落ちる。

  秩序や規律のない国で君主に仕えるなら、その国の風俗やしきたりを正して教化しなければなりません。そうしないと、これ以上の不忠はなく、命令に従う国民よりもむしろ天の怒りを受け、その罪も大きくなります。また、仕えない者は讒言者によって罠に落とされないようにし、隠れて表に出ないようにすべきです。知識のある者が罪に遭うことは国全体の恥であり、知識のある者自身もまた正しい道を踏み外すことの恥を避けられません。したがって、知識のある者は主君の恥や天の道に反することをしないのです。これが隠れて表に出ない理由です。

  ところで、目の良い者がかえって井戸に落ちるのは、目が良いことにうぬぼれて白昼に目を虚空に向け、暗夜によく知った道から足を外す者ではないでしょうか。暗い場所にうまく対処できる者ならば、そのようなことはないでしょう。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(58) 自分に備えがないのは危険を招く

己の備えざるは危険を招くなり(幣帚自臨伝 巻三 戸入(といり)
・自分に備えがないことは危険を招きます。

  乱れた国であっても、そこに居るべき理由があれば居り、危険な国であっても入るべき理由があれば入るのが武人の道です。その国で自己の正位(正しい位置)をここに定めて、隔てる者も支える者も自分の盾とするには、そこにあるものはそこにあるものとし、その国への出入は自分には関係ないものとして自分の自由です。例えその国の事情を知っていても、自分に備えがなければ危険に対処することはできません。その事情を知ることは危険に関わることです。自分に備えがないことは危険を招きます。危険を招いて危険に関わる結果、最終的には危険だけが残ります。

  正位に居る者はそうではありません。正位を保つ者は物を盾にするとき、速やかに身を低くすることを忘れず、座っているときは隅から隅へと移動して小具足を見つけているのです。物を盾にするとは賢才を自分の親友とすることです。身を低くするとは礼儀に深いことです。隅から隅へ移るとは地位を探して低い地位に居ることです。このようにすれば何の危険もありません。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(59) 実は正の根、正は実の花

「実は正の根、正は実の花」(幣帚自臨伝 巻三 小太刀実妙剣(こだちじつみょうけん))
・実(まこと)は正(正しいこと)の根、正(正しいこと)は実(まこと)の花に例えられる。

 自分は正しいことを行い誠実であっても、佞奸邪悪(ねいかんじゃあく、表面はいいが心はよこしまで悪い)な人間のために陥れられて罪に落ち、処罰を受けることがあります。本当に罪がないのに、讒言する者のためにこのような結果になると、処罰が正しくないことを国内に知らせることになり、正しい者でも罰を受けるということを将来に残すことになります。このような事件が起こるのは、実妙(真のはたらき)に到達していないためです。根がないものは長続きしないのは誰もが知っているとおりで、正しい位置づけを守っても、実際の実妙(真のはたらき)が伴っていないと、佞奸邪悪の者を滅亡させる妙(はたらき)を得ることができません。

正実(せいじつ)の道を守り、天地を感動させることができれば、大太刀は小太刀に支えられ、罰が賞にも変わります。小太刀は自分の罪を償う道具ですが、罪がなければ使うことはありません。むしろ讒者を防ぐために用います。この正実には必ず妙(はたらき)があり、奸邪(よこしまな者)を防ぐのにも、初めに自分を正して、誠実に基づいて正しているのだとして、他者を正していきます。これを妙といいます。実(まこと)は正(正しいこと)の根、正(正しいこと)は実(まこと)の花に例えることができ、妙(はたらき)はこの正実の花全体を包む「香り」なのです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(60) 運が強くなりたくば、この世で縁あることを願え。

「運の強からん事を欲せば先ず世上縁のあらん事を欲せよ」(幣帚自臨伝 巻三 卍字貫(まんじのかん)))
・運が強くなりたいと望むなら、まずこの世で縁があることを願え。

 賦様(ふざま、人の性質)の善悪というのがあります。これは、生まれつきの才能の生かし方のことです。やはり運の強弱もあって、正実(正しく真であること)を兼備していても、禀賦運命(生まれつきの運命)の廻り合せによって、才能を十分いかすことができず、ついに埋もれて、一生を終えてしまうのも、上から愛してくれる人もなく、下から尊敬してくれる人もないから、信じられず、仰がれずして、このように生まれついての才能を生かしきれないあり様になってしまうのです。

 ですから、運が強くなりたいと望むならば、まず、この世で縁があることを願いなさい。この世界の中、皆兄弟のような縁があれば、だれが強運を争うでしょうか。上下左右、全員が自分の防御となって、どこの国にあっても、いつの時代にあっても、自分の地位を広く永く保つことができ、やることもたやすく実現するでしょう。達人は、みな一つの考え方で一筋に貫くものです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(61) 陰陽、天地、山川に逆らうことがあれば...不意の滅亡を迎える

陰陽天地山川に逆する事あらんには...不意の滅亡も得る事あらん」(幣帚自臨伝 巻三 日月風雨坂水之事(じつげつふううはんすいのこと))
・陰陽、天地、山川に逆らうことがあれば...不意の滅亡を迎えることもある。

 人としてこの世に生きる者は、陰陽(いんよう:陰と陽の二つの原理)の働きによって気血(きけつ:生命力)を生じ、天地(てんち:天と地)の法則によって生命(首尾:始まりから終わり)を全うし、山川(さんせん:山と川)によって四肢(しし:手足)をうまく働かせて生活するのです。したがって、陰陽天地山川に逆らうことがあれば、すぐに人間の道にも反して、不意の滅亡を迎えることもあります。

 月日(つきひ:過ぎていく時間)は陰陽の本質であり、風雨(ふうう:風と雨)は天地の余動(活動の余り)であり、坂水(はんすい:坂を流れる水)は山川の通り道です。これらに対して敵対することはできません。これらに対して敵対することは、自分の道を損ない、自分の身を傷つけ、その地位を誤ることになります。これこそが人間の本来の位置づけとして慎まなければならなりません。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(62) 天性の才能があっても、学ばないと生かしきれない落ち度となる。

「たとえ天性の才ありとも学ばざれば不才の越度となるぞ」(幣帚自臨伝 巻三 三才之矩(さんさいのかね))
・たとえ天性の才能があっても、学ばないと才を生かしきれない落ち度となる。

 天の(さい、働き)は地に恵みを与えて形を現わし、地のは天の力を借りて物を生み出し、人のは天地に従って行動することです。三才(天、地、人の才)は大きいものですが単独で成り立つものではありません。(かね、法則)とは臭声(かね、臭いと声)のことです。物の真実を探る者は、まず初めに香りを嗅いで確かめ、音を聞いて答えに至ります。これが真実を探るときの最初の入り口です。したがって、その香りと音を目当てにして真実を知るべきです。その真実とは、いわゆる(はたらき)のことです。

この(さい、働き)がなければ、何をするにも災難に見舞われてどうすることもできませんが、(さい、才能)は生まれつきのもので、学ぶべきものでないと放棄して、の無いまま人生を終える者がいます。これは惜しいことです。学べば学ぶだけのがあるからこそ功績を積むことができるのです。たとえ天性の(さい、才能)があっても、学ばないと過ぎたり及ばないことが起きて(才能)を生かしきれずに落ち度となります。これは(才能)がないのと同じです。つまり、(才能)とは、使いどころを上手く使って好機をよく考えて発揮するという気働きのことなのです。学んで気づくべきです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(63) 視観察は機輪玉蕊心通(きりんぎょくしんしんつう)に至る方法

 視観察は機輪玉蕊心通に到るの香音なり」(幣帚自臨伝 巻三 目附機輪玉蕊心通 (めつけきりんぎょくずいしんづう)
・視観察(しかんさつ)は機輪玉蕊心通(きりんぎょくしんつう)に至る方法なのです。

 事を行おうとする人は、目標に心が通じていなければ、明らかにならないので。いつも落ち度だけがあって失敗するものです。そこで「目付の視観察(しかんさつ)」という方法を使って修行します。「見る」ということは、目で理解することです。しかし目が理解しても心が理解しなければ役に立たないので、心に理解させる修行の方法として「視観察の教え」を設けます。「(し)」とは、この布は裏は素地を赤く染めただけなのに、表は素地を一度白く染めてから、その上を赤く染めたので美しく見えるのだなあと、気をつけて視(見)ることです。「(かん)」というのは、赤い表地に赤い裏地をつけてあるので見栄えがいいのだなあと味わって観(見)ることです。

修行する中では、物事を詳しく視(見)なければ心に理解されず、時計やからくり人形ではその仕組みを視なければ理解もできません。まずは水晶の玉蕊(ぎょくしん、真芯)を見るように観(見)て、心のない人形に心を持たせることが重要なのです。「(さつ)」とは、物言わぬ人形にその情感を出させることですが、心の中で察しなければ気持ちを汲み取ることは難しいのです。視観察(しかんさつ、視て観て察する)は機輪玉蕊心通(きりんぎょくしんつう、仕組みや真っ芯に心を通わせる)に至る方法です。事に限らず、人々の関係の上では、目標に心を集中させて観て、心の核心を見透かし、事前に備える機輪(仕組み)を視抜く才能がなければ事を成就させることはできません。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

自臨伝(64) 身体を使う方圓曲直鋭の方法

「身之矩方圓曲直鋭」(幣帚自臨伝 巻三 方圓曲直鋭 (ほうえんきょくちょくえい))
・身体を使う方圓曲直鋭の方法。

人間の(えい)について説明すると、天地の間にあるものはすべて、上が細く下が太い座りのよい形のものです。ところが上が張って下が窄んでいるのは人間ですので長くはもちません。それならば、座りをよくして倒れず傾かないようにしようと思うのなら、まず鋭の形を学ぶべきです。で立って動かないのを(ちょく)といいます。直が曲がったのを(きょく)といいます。曲が行き尽くしたのを(えん)といいます。円がしゃがんだのを(ほう)といいます。方(けた)とは地の形であって□の形、上下左右に太刀を振ることです。(まどか)とは天の形であって○の形、左右前後に太刀を回すことです。(きょく)とは身を折って沈む形をいい、(ちょく)とは身を立てて浮く形をいいます。

Cである(曲がっている)、|である(立って動かない)、△である(座りがよく倒れず傾かない)、この身体の形を常に意識して習熟すれば、変化に応じて自由な動きを得ることができ、動きが滞ってしまう病はありません。その上、身体の使い処と出るタイミングを知って、時に合わせて場に慣れれば、どうして難しいことがあるでしょうか。(まる)い事は更に円くするように修行し、(けた)な事は真四角に稽古して、角が立たず(けた)とも(まるい)とも見えるような、未熟な仕事ぶりは実際に使おうとすれば役に立たず、そもそもやり遂げることがきません。まして(はたらき)という段階に至っていないのです。そのというのは不思議な力を発揮するものなので、まずそのを身につける下地稽古として「方圓曲直鋭の香音(法則)」から修行せよとの教えです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Keith Tang)

 

 

 

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