片山流神武之会は、片山流居合剣術の技法を今日に保存し、古流伝承に努めています。

自臨伝(第一巻)

自臨伝(1)武とは自然と武力が止むことである

「当流居合の道は、武人当(まさ)に行うべきの路(みち)にして、以て武(ぶ)為す所の術なり」(幣帚自臨伝 巻一 幣帚自臨序)
・この流の居合の道は、武人がぜひとも行うべき路であって、武を行う術である」

「幣帚自臨伝」(以下、自臨伝と略す)は、この一節から始まります。
これは、正保4年冬、二代久隆が著した「幣帚自臨伝」の冒頭の言葉です。
「武を為す所の術」とはどのようなものでしょうか? 久隆はこの序文の中で、平和な国で武を学ぶのは富裕な家で倹約を行うようなものであり、戦乱の国で武を準備するのは、火に水を投じるようなものだと言っています。しばしば武道の世界では、「武」は「戈を止める」と説明されます。しかし「自臨伝」では、「武とは戈止むの謂いなり」と、武力を武力でもって止めるのでなく、武力が自然に止むのが、真の「武」であると書いています。
(提供;和田雄治
 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(2)未発の居合」、「自臨の居合」とは

「居合は、衆と道同じうして心合うの謂いなり。」(幣帚自臨伝 巻一 居合和解)
・居合は、皆が自分の務めるべきことを務め、刃を心の鞘に納めて、気持ちを合わせて刀を抜かないことである。

 和解(わげ)とは平易に説明するという意味で、この章では居合を説明しています。武人は武道に、農夫は農業に、工匠は工作に、商者は商売にと、人はそれぞれ、自分が務めるべきことをきちんと務め、刃を心の鞘に納めて、すべての人が刀を抜かないことが居合だと説いています。これを「未発の居合」(抜かない居合)といいます。
 人に先立つ(先(せん)をとる)ことは有利なことですが、その先(せん)を取ろうとしてまた争いが起こります。当然、争わないことによる利益もあるはずで、これを「不争の利」といい、先之先をとるともいいます。先之先をとれば、争わずして国を平和に治めることができます。これを「自臨の居合」といいます。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(3)磯の波は退いて跡を汚さず

磯の波は、既に打ちて速やかに其の場を去り、其の当に居の地に安居するの隠名なり」(幣帚自臨伝 巻一 一刀術)
磯の波というのは、磯を打って速やかにその場を去り、本来住まいする地に平穏に暮らすことを隠したである。

 「磯波」(いそのなみ)は、片山流居合剣術、伯耆流居合術を学ぶ者にとって、まさに象徴的で愛着のある言葉です。渚に石があるところを磯といいいますが、波が磯を打つように、乱を鎮め、乱が治まった後は、波のように跡を汚さず速やかに去るという意味です。磯波は「居其並」とも表記されます。不正がない世に順って、乱さず、影響されないことをいいます。潮のように満ちるときは動き、干るときは休みます、世が乱れるときは進んで不正を正し、治まるときは退いて後を汚さない。これを「切引一本(きりびきいっぽん)の居合」といいます。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝4)武とは強く激しいことではない

「当流に謂うところの武とは猛烈の事にてはあらず、敢果速治の義なり(幣帚自臨伝 巻一 出生代図解)
・この流がいうところの武とは、強く激しいことではありません。思い切って行動し、      速やかに争乱を治めるという意味です

 武の本来の願いは、「敢果速治」の意味を理解し、速やかに行動し、すばやく争乱を治めることです。もし自分が負けて争乱が治まるならば早く負ければよい。勝つ事で平和がもたらされるなら、早く勝って争乱を終わらせなさいということです。
自分の行いが、天の意思に一致していることを「正道」といいます。この「正道」にしたがってものごとの善悪を判断し、できごとの良し悪しを占い知り、争乱を長引かせず、争乱を未然に防ぐことを武の道、「武道」といいます。
(提供;和田雄治
 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(5)刀について、本来長さの定めはない

大小刀は素より寸尺の定めなし(幣帚自臨伝 巻一 当流居合片刃寸尺)
・大刀小刀については、本来長さの定めはない。

 刀の長さについては本来決まりはありません。その人の大小長短、体格にしたがって適ったものを用いれば結構です。鍔は拳をおおうものが良いわけで、それゆえに丸い形のものが適当といえます。
道歌に「己をば屈め、刀のみは反らせ。行作は角に鍔は円(まろ)かれ」(身体は屈め、刀だけは反らせ伸ばせ。動きには角を作り鍔は丸いのがよい)とあります。「動きには角(かく)を作り」とは、敵の攻撃を受ける時には三角の角(かど)で受けることをいいます。

  江戸時代の男性の身長は、日本の歴史の中で最も低く155157cmと推定されています。この時代の一般的な刀の寸法は二尺三寸~三寸五分(70.671.2 cm)ともいわれていますが、伯耆流居合に用いられた「肥後拵え」の刀は、二尺一寸五分(65.1 cm)程度と短いものが多く残っています。これは、居合は片手で切り込むので両手で切り込むより八~九寸(24.227.2 cm)くらい切先が伸びること、短い刀は速く刀を抜くことができることから、一瞬に勝負を決める居合には有利であるためと云われています。現代では、鞘引きの訓練のため、当時よりは長い刀を好む傾向にあるようです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(6)大刀は不正を正すもの。小刀は自分の腹を刺すもの。

「当流専ら剣術と称するは、神武にして殺さずを本旨として、以て不正を治むるの故なり」(幣帚自臨伝 巻一 当流大小刀之掟)
・当流が、ひたすらに剣術と名乗るのは、神武であって殺さないことを目的として、不正を治めるためです」

 刀は、自分の手に合い力に応じたものを試して帯刀とするわけですが、長短の損得を論じて決めるものではありません。本来、剣とは両刃のものですが、片方の刃は敵対する者に、一方は自分に向いています。刀はこの剣の両方の刃を二つに分けて大刀と小刀を作ったものです。したがって、大刀は上の命令に従って不正を正す道具であり、小刀は自身の誤りを謝罪して脇腹を刺すものです。
 大刀も小刀も自分の恨みを晴らす道具ではありません。片刃の刀を持つ者も、常に両刃の剣の意味を忘れてはなりません。

(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(7)心燈の火をかかげて危を照らす。

「心燈の火を挑げ尽くして、安中明らかに危を照らす。胸裏の鎧を看さず、寛柔以て之に居る。」(幣帚自臨伝 巻一 五居詩・平居之要)
・常に心の灯の火をかかげて、平穏な中に明らかに「危」を照らし出す。心にしまった鎧は表に見せず、心を緩やかに居る。

「五居詩(ごきょのうた)」とは、五種類の居り方を説明したものです。「平居之要」普段平穏なときは、平和な中にも危険を忘れず胸中に着た鎧を表さず、広い心で柔軟に居ること。
「閑居之要」俗世間を離れた生活では、物の本質を見極めて、事が起こる前兆を予測し、暗がりの中で衣服を着るように用心深く居ること。

「索居之要」家族友人から離れたわびずまいでは、剣刃が傷を受けないように、自分自身の邪を無くし尽くすこと。
「群居之要」大勢がむらがり住む時は、早春に草木の芽が吹き、花が咲きように穏やかであること。
「得居之要」道理を外れず中道を行き、対立を離れ、人と人が闘争しないしないこと。

「未発の居合」(抜かない居合)を理解し、最後まで刀を抜かない人は、武人の道を満たしている人です。さらに他の人にこれを伝えて、乱が起きなくなったとき、この人は武人の師の道を極めたといえます。「未発の居合」を天下に広めることこそ「武将の道」です。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(8)「二動一止」二つが動き、一つが止まる

二動一止といえる事は、業にて示す通り、動くところのものあれば止まるところのものもあり。」(幣帚自臨伝 巻一 甲乙開合二動一止説解)
・二動一止という事は、業で示す通り、動くところのものあれば、止まる ところのものもある。

太刀、体、足の三つが同時に動くことを「三動」といい、この三つを同時に止めることを「三止」といいます。術を心得た人は三動三止を嫌うといわれ、天真正伝香取神道流でも三動三止を禁じています。しかし片山流では「二動一止」と教えます。これは理解しやすく業にも応用しやすい名前だからです。二動一止とは、業の中で示す通り、動くところのものもあれば、止まるところもあるということです。これがなければ人に勝つ事はありません。

 例えば「磯波」のように、座っている者が腰を上げ敵に対応するとき、両の手を柄にかけ、足と手の二つは動きますが体の一つは動きません。太刀で受け込むとき、右手は体を被い左脚は伸ばして引き、脚と手の二つは動きますが体は動きません。「右発」のように太刀が回って変わろうとするとき、体は開いて片身となり、太刀と体の二つが動いて脚の一つは突っ立って動きません。退く時、体は屈めて脚は速やかにその場を去ります。これ体と足の二つは動いて、太刀の一つは臥龍の構えに戻って動かないのです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(9「位事理」(いじり)とは、品格、技術、理論のこと

「位事理とは、敵にむかって進み勝たざる事なきの名なり。」(幣帚自臨伝 巻一 甲乙開合二動一止説解)
・位事理(いじり)とは、敵に向かって進み勝たないことのない名です。

 居合や剣術だけでなく武芸には「位・事・理の三つの要素」があります。
「事」(じ、わざ)とは、身体・道具を使う“技術”のことです。
「理」(り)とは、勝つための“理論”です。
「位」(い、くらい)とは、「事」と「理」が兼ね備わった結果生じる“品格”のことです。 この三つを「位事理」(いじり)と呼びます。
修行を重ねた人は、初心者に比べて、「位事理」の三角形が大きいのです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(10業(わざ)あって位(くらい)なければ、業を使い過ぎて負ける

「事(わざ)あって位(くらい)なき者は多くは過ぎて負けるものなり。」(幣帚自臨伝 巻一 甲乙開合二動一止説解)
・業ばかりで位のない者は、多くの場合、業が過ぎて負けるものです。

1.事(わざ)があって位(くらい)のない者は、業を使いすぎて負けます。やり過ぎの落度といいます。
2.事(わざ)があって理(り)のない者は、勝ってもその理屈が分かりません。勝ちが安定しません。
3.位(くらい)があって理(り)のない者は、負けて結果を疑います。反省せずプライドが高いからです。
4.位(くらい)があって事(わざ)のない者は、負けて安心します。あきらめて反省しないためです。
5.理(り)があって事(わざ)のない者は、恐れて負けを悔います。自分に技術がなく、相手に技術があることを考えるた
めです。
6.理(り)があって位(くらい)のない者は、極端に負けを恐れます。なすべき事が分からず、身体や心が停滞するためで
  す。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(11)人を切った後は、役割を誤ったことを謝して腹を切る

「もし切らば、己(おのれ)の腹をも切り割(か)きて、天人地を誤りしの罪を謝すべし。」
(幣帚自臨伝 巻一 専伐抜刀名目假用弁/往相向太刀(せんばついあいみょうもくかようのべん/ゆきあいむこうのたち)

・もし人を切ったならば、自分の腹をも切り割いて、天・人・地の役割を誤った罪を謝罪しなければなりません。

往相向太刀(ゆきあいむこうのたち)とは、常々事が起ころうとするのを、よく見てよく知って準備をおこたらないことをいいます。恰好が悪い庭の松の木のように、道理を外れ、悪逆をつくす者は、誰が至らぬせいでこのようになるのでしょうか? このような者に不意に出会ったとき、放置することもできず切ってしまうことにもなります。
しかし、もともと天・人・地にはそれぞれの役割があります。いかに悪い人間とは言え、人を裁くという行為は天の役割です。人が人を切るのは、天の役割を侵す行為になります。ですから、人を切った後は、天・人・地の役割を誤った罪を謝罪し、自分の腹をも切らなければなりません。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(12) 出すぎたことを謝罪して腹を切る

 「捌(さば)くべき人にあらざれば、其の席を帰らず、自殺して己の過行を改謝すべし」
(幣帚自臨伝 巻一 専伐抜刀名目假用弁/還抜小手切(せんばついあいみょうもくかようのべん/かえりぬきこてぎり
))
・捌く役目の人ではないので、その場を去らず、自殺して自分の出過ぎた行いを改めて謝罪するべきです。

  還抜小手切(かえりぬきこてぎり)とは、平穏で安楽にいるときに、突発的に事が起こることをいいます。このような出来事が起こる兆しがあれば、出鼻をくじいてその場をとにかく処理する事が大事です。自分がその役目でなくても、まずは目の前の出来事を治めることが大切です。  しかし、たとえその事態を鎮めるためとはいえ、突然の出来事であるとはいえ、自分は人を裁く役目の人間ではないのですから、その場を去らず、自殺して自分の出すぎた行いを改めて謝罪するべきです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(13) 軽はずみである罪を謝罪して腹を切る

「不慎みの風儀のあるからなりとして、其の席にて腹切るべしとなり。」 (幣帚自臨伝 巻一 専伐抜刀名目假用弁/左連裏勝(ひだりづれうらがち)
・軽はずみな態度があるからだとして、その場で腹を切るべきです。

  左連裏勝(ひだりづれうらがち)とは、味方と思われて、目上の人から悪事の密談があるときです。悪事の一味に誘われたときは、この話を外に漏らさないこと を約束して相手を安心させ、次にその人の非を諌めて、相手に悪事を止めさせることです。
 そして、そのような悪事に誘われたのは、自分に軽はずみな態度があるからだと考え、軽はずみである罪と目上の人を諌めた罪の両方を謝罪して、その場で腹を切るべきです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(14) 納得させることができないときは、自分の落度として腹を切る

 「得呑み込ませぬ事なれば、己の越度(おちど)として其の席で腹を切るべし」(幣帚自臨伝 巻一 専伐抜刀名目假用弁/右連押抜(みぎづれおしぬき)
・納得させることができない事なので、自分の落度としてその席で腹を切るべきである。

右連押抜とは、目下の人から悪事を頼まれ、やってはならないことをやろうとするときです。このときは、その計画した悪事をよい方向に変えて、目下の人を納得させるべきです。もしも相手を納得させることができないときは、自分が至らぬために、納得させることができないのですから、自分の落度としてその席で腹を切るべきです。
 この人なら悪事に荷担するだろうと思われたことは自分の恥辱であると考え、自分にどのような正しくない行いがあったか尋ねて相手に謝罪すべきです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(15) 猪が臥すように、いつでも駆け出ようと足備えして待つ。

「猪獅(いのしし)の床に臥す形に、何時(なんどき)も駆け出んと足偶合(あしぐあえ)して待つ」(幣帚自臨伝 巻一 専伐抜刀名目假用弁/追懸抜磯波(おっかけぬきいそのなみ))
・猪が床に臥す形に、いつでも駆け出ようと足備えして待つ。

追懸抜磯波とは、まったく事が起こる兆しもない普段のときから、もし万々一のことが起こったときは、速やかに応じて、すばやく事態を治めることができるようにすることです。
ちょうど猪が床に臥す形が、いつでも駆け出ようと足備えして待つように、用心を厳重にして、追いかけて遅れない引き締まった気持ちを持つことです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

 

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