片山流神武之会は、片山流居合剣術の技法を今日に保存し、古流伝承に努めています。

自臨伝(第二巻)

自臨伝(16)当流だけが刀術と言わずに剣術という

「当流独(ひと)り刀術といわずして専(もっぱ)ら剣術と云う」(幣帚自臨伝 巻二 剣術目録序(けんじゅつもくろくじょ))
・当流だけが刀術と言わずにただただ剣術という。

「剣」(けん)という漢字には「検」(けん)の字の意味を含んでいます。「検」には、取り締まる、正すという意味があります。私たちの流だけが刀術と言わず剣術と言うのは、「武」の本来の意味を忘れないようにするためです。「武」とは争乱が自然と止むという意味ですが、私たちは自分の心を常に正して引き締めておかないと、ともすれば切ったり殺したりの事になります。ですから私たちは「剣術」と名乗って、常日頃から自他の心を引き締めているのです。

 刀は片刃ですが、剣は両刃のものです。一方の刃が人に向えば一方の刃は自分に向いています。これは、切ろうとする者にも半分の罪があることを意味しているのです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(17)物があれば、必ず法則がある。

 「物(もの)有れば必ず則(そく)有るなり、理(り)有れば必ず事(わざ)有るなり」(幣帚自臨伝 巻二 剣術目録序(けんじゅつもくろくじょ))
・物が有れば必ず法則がある。理論があれば必ず技術がある。

 将来に起こることを予測して対応するのは難しいことです。ですから物事が起こった始まりに注意して対応することが大切になります。物が有るということは、それなりの理由があり、その理由は必ず一定の法則に基づいています。

 たとえば、堂塔を立てることは一つの事を成し遂げるということですが、堂塔を水平に建てようとすれば、地ならしをして必要な道具を使わなければできません。堂塔を建てよとの命令がでる以前から、平生に理屈や法則を熟知して、仕事に習熟しておく必要があります。大工仕事を始める日になって、恥ずかしい事がないようにしておくべきです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner) 

自臨伝(18)生を大切にし死を嫌う

 「天地間の道といえるものは、生を好(よ)みし死を悪(にく)む事ぞ」(幣帚自臨伝 巻二 剣術目録序(けんじゅつもくろくじょ))
・天地間の道理というのは、生を大切にし死を嫌うことである。

 この自然界にある鳥、獣、虫、魚のすべてのものが愛を好むのは生を大切にするためです。恐れて悲しむのは死を嫌うためです。この自然の法則からす れば、だれもが殺傷を好まないのが当然のことなのですが、間違って自分の生だけを大切にすることから、あげくは人を殺してその財宝を奪い、君父を殺すことになるのです。
率先して争わない心を養えば殺伐とした争いは起こりません。喧嘩や口論もないように治めることが天地間の正しい道であるのです。幾千年に及んでもこの世がある限り、自分の我欲だけを働かせてはいけません。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(19)修行とは行いを正すことである

「修行といえるは行作を修理すること」(幣帚自臨伝 巻二 剣術目録序(けんじゅつもくろくじょ))
・修行というものは、行いを正すことである。

 生を大切にし死を嫌うという本性を間違えて、殺すことを好み死ぬことを快がるのは大きな間違いです。日々、失敗がないように気を配り、時に反省し、毎日新たな心がけで、どこまでも生を大切にする気持ちを押し広めていくことが修行です。すなわち修行というのは自ら行いを正すことなのです。しかしながら入る道を間違えば、間違った所へも行きついてしまいます。

 剣術とは大小の刀を使う道です。刀は武士にとって一番身近なものです。ですから、一番身近な刀を使う剣術を利用して、生を大切にするという最も大事なことを修行すれば、理解もしやすくなり争いもなくなるはずだと思います。大海の魚は天然と大きく、小林の鳥は自然と小さいものです。これは自然の道理です。自然の道理に従わなければ成し遂げられるはずがありません。私たちは片山流の剣術を通じて、人にとって一番大事な道理を学ぶのです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(20)高い山もひとつかみの土を積んだもの。

 「山の高きといえども一撮(いっさつ)の土を積むなり」(幣帚自臨伝 巻二 剣術目録序(けんじゅつもくろくじょ))
・山が高いといってもひとつかみの土を積んだものである。

  山が高いといってもひとつかみの土を積んだものです。海が深いといってもわずかの水が溜まったものです。ですから、少しの物を捨てない事こそ莫大なものを作り出す基礎なのです。取り敢えずのことだとして粗略にするから、粗略なものが積み重なって、結局は粗略なものしかできないのです。もし最初から丁寧に結果を出すようにすれば、準備は万全になりやり残すことがありません。

 修練を尽くせば急なことにも対応できて、普通の時も緊急の時も特別に行いに差はありません。それは、慣れた道を通る者には、夜も昼も変わりないのと同じです。敵も味方も同じ人間で同じように生を好みます。ですから姿勢を正して殺す素ぶりを見せず、本心から相手を生かそうとする気持ちを示せば、敵となって刃向かって来る者はいません。敵も殺さず、味方も殺さず、ただ人が争う原因を殺すことが本当の武道です。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(21)「応変八極」とは、様々な変化に対応すること。

「旦(あした)に起きて昼は勤め、晩(くれ)に仕舞いて夜臥すは、変に応ずるなり」(幣帚自臨伝 巻二 応変八極(おうへんはっきょく))
・朝起きて昼は働き、夕に終って夜寝るのは、変化に応じていることである。

 正が邪に変わり福が禍に変わるのは、朝が夕に変わり昼が夜に変わるようなものです。朝を知らなければ夕を知ることはなく、昼を知らなければ当然夜を知ることはありません。小児のように道理を知らない者は変化に応じることができません。朝に起きて昼は働き、夕に終わって夜寝るのは変化に応じているのです。何事も極まらなければ変化することはありません。冬が極まれば春に変わり、夏が極まれば秋に変わります。極まるというのは行き詰むことです。良い物は良くないものに変わり、悪いことは良い事に変わるものです。
( 片山流の教え/応変八極

 八極とは、古代中国で考えられた天地自然を象って作られた八種類のパターンです。一つが極まれば次へと移り進みます。「応変八極」とは、八極の変に応じる、つまり様々な変化に対応することをいいます。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(22)正しい眼をもつことを正眼(せいがん)という。

正を眼(まなこ)としたる義を正眼とは云うなり」(幣帚自臨伝 巻二 応変八極(おうへんはっきょく))
・正を眼(まなこ)とする教えを正眼という。

 正を眼にする教えを「正眼」といいますが、眼にするとは、人の目が塵や垢を避けるように、素早く反応して開け閉じすることです。来る物に素早く対応することが必要だという言い伝えです。太陽が毎日東から出て西に渡るように、常に行動を正しくしなければなりません。人の性格によっては、気が動転することはよくあることです。何事についても素直であることを常にすれば、仰天する胸は落ち着いて仕損じはありません。

 物に接する時に自分の眼を正しくするという意味ではありません。常に正しさを失わない眼をもつという意味です。眼が既に正しければ、改めて眼を正して物を見る必要がないのです。このように対処すれば一瞬に応じることができます。あれこれと考え迷うこともありません。だからその反応は速いのです。これを「正眼」といいます。 ( 片山流の教え/応変八極
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(23)刀を鞘に納めて抜かない。これを臥龍(がりゅう)という。

「納めてついに発せずこれを臥龍という」(幣帚自臨伝 巻二 応変八極(おうへんはっきょく))
・鞘に納めてついに抜かない。これを臥龍という。

 刀を身につけるというのは、刀をよく研いでしっかりと鞘に納め、最後まで用いないことです。つまり安易に抜くために身につけるのではありません。刀は、不正を征伐する時にだけ使う道具であって、それ以外に用いるものではないのです。

  刀を鞘に納めて抜かない、これを「臥龍」といいます。刀を鞘に納めて抜かないというのは、刃先は眠らせるが心は油断しないという意味です。臥龍とは静かに横たわる龍のことです。たとえ敵がいても攻撃してこなければ受ける必要はありません。臥龍の構えとは、刃先を眠らせて(敵を威嚇しないように刃先を下げて)、柄頭を左の胸によじ上らせて乳につくようにする構えです。これは龍が敵に近寄るとき、首や尾に油断がなく、姿を現わさないことに例えています。( 片山流の教え/応変八極
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner)

自臨伝(24)剣とは邪(よこしま)なものを防ぎ正すものである。

「剣とは本(もと)奸邪を防検するの具なり」(幣帚自臨伝 巻二 応変八極(おうへんはっきょく))
・剣とは本来奸邪を防検するための道具である。

 古い昔、邪悪な大蛇が「叢雲剣(むらくものけん)」という宝剣を尾に隠したとき、その尾には常に雲がかかっていたと言います。しかし大蛇は人が行うべき道徳を知らない邪悪な虫でしたので、最後は素戔鳴尊(すさのうのみこと)に殺されたのでした。すなわち、雲に徳が宿っているといっても、剣が邪悪な者の手にあるときは役に立たなかったのです。( 片山流の教え/応変八極

 剣は本来心の奸邪を防ぐ道具です。奸邪の仲間に加わることはありません。剣に善徳があるのではありません。剣を用いる者の尊卑によって、その徳が剣に現われるのです。あの大蛇のように、剣を使う者が剣の徳を減らしてはいけません。止むを得ず行った行為だとしても、刀を抜いて人を殺める行為で、その人の徳は落ちるものです。昔の武人は右を尊び左を卑しみました。止むを得ず行うことを卑下して左龍といいます。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(25)虎は竹林に居て獅牙牛角を示さない。

「虎の竹林にあって獅牙牛角の具を示さざる」(幣帚自臨伝 巻二 応変八極(おうへんはっきょく))
・虎は竹林に居て、獅子の牙や牛の角などの具を示さない。

 虎は竹林に居ることで異獣から身を守ります。ライオンの牙、牛の角ような戦いの道具を見せて他を威嚇することはありません。これと同様に、愚かな人間の愚行から身を守るには、ひたすら自分は正しい行いを優先させて、これらの者と争わないことです。
このことができる人は、外面には(ぶん)=学問・知識を表し、内面には(ぶ)=武道を有する人ですので、全ての獣の中で最も勇猛な者です。これを虎乱といいます。

( 片山流の教え/応変八極

 外面に文、内面にを持つ者は、人々から憎まれることがなく、人々の中に穏やかに居ます。自ら準備して敵を攻撃しようとする気持ちもなく、味方を混乱させるような身勝手な行動もありません。その太刀筋は、撃つでもなく受けるでもなく、まるで太刀に鞘がないように、攻撃するにも無駄がなく敵の刀を受けても勝つ手段が残っています。「外面は文、内面は」という形は、すばやく物事に対応できる形です。治める(混乱を鎮める)というのは、このようであるべきです。
(提供;和田雄治 , Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(26)不正の者を避けて時節の到来を待つ。

「不正の勢いを避けて時節の到来を待つ」(幣帚自臨伝 巻二 応変八極(おうへんはっきょく))
・不正の者の勢いを避けて時節の到来を待つ。

 水車が水を待って転がり、風車が風を得て回るのは、車(くるま、しゃ)が風や水の力をうまく利用しているからです。水車が水に打たれて落ちて流れ、風車が風に吹かれて壊れて飛ぶのは、風や水の力が勝って車が風や水の力をうまく利用できなかった結果です。回ることは車の役目ですので、よく回るということは車が自分の役目をしっかり果たしているということです。
邪悪な者が来て自分を侵害するとき、車が風や水の力をうまく利用して回るように、うまく機会を得て邪悪な者を退避できれば、自分は命を長らえて邪悪な者は屈するでしょう。これは自分の力が邪悪な者を屈したのでなく、天の力を借りて邪悪な者を屈したのです。これを(しゃ)といいます。 ( 片山流の教え/応変八極

 不正の勢いが強い時は太刀を身に添えて離さず、不正の勢いを避けて正しい行いを守り時節の到来を待つことです。決して勝とうとする心を持たず、良い場所に進んで悪い場所を避けることです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(27)武には事(わざ)と理(道理)がある。

武に術有り道有り 術とは事(わざ)なり道とは理なり」(幣帚自臨伝 巻二 居合八極変(いあいはっきょくへん))
武には術があり道があります。とは(わざ)です、とはです。

  武には術があり道があります。とは(わざ)です、とは(道理-正しい筋道)です。 事を知って理を知らない者は刀で自分の技量を人に試します。理を知って事を知らない者は刀を使うことができません。を兼ね備える者は、刀を磨いてしっかりと鞘に納めている者です。よく磨きよく納めてこれに品格が加わった者は敵に出会っても負けることがありません。 片山流の教え/居合八極変

 何事もしっかりと厳重にすることです。大切な物を蔵に納めても、錠をかけなければいずれその宝は失ってしまいます。盗人は隙を見つけて入るもので、隙がなければ入る事はできません。自分自身が隙をつくって禍(わざわい)を招き入れたのであれば、それは自分自身の罪です。誰をも咎(とが)めることができません。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(28)居るべき所にはおり、去るべき所は去る。

處るべきには處り、去るべきには去る」(幣帚自臨伝 巻二 居合八極変(いあいはっきょくへん))
・おるべき所にはおり、去るべき所には去る。

  (円=えん)は角も辺もない自然の形です。かたくなに片隅の事柄にこだわり、全体の変化を知らないようではいけません。「」(なみ)は干満する水に逆らわないものです。自然に逆らわないようにするべきです。親しい者とは親しくし、親しくない者とは親しくしないこと。居るべき所にはおり、去るべき所は去るということです。道理を理解できない者と、道理の話をする必要はありません。その話題の論争を避け、平穏に相手と付き合っておればいいのです。

 刃が鞘の中にあれば、人に恐れられたり怪しまれたりすることはありません。天道(=自然の道理)を心の中に隠して、世間の人と同じように振る舞うことが圓波の通常の在り方です。天道を亡ぼそうとする者があればその人を亡ぼしなさい。拳を振り上げて来るものがあれば蹴戻しても構いません。仕向けてくるのに応じた太刀筋を大事にすることです。圓波は打ち戻す業として活用します。(片山流の教え/居合八極変
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(29)自分も勝たず人も勝たず。

我も勝たず人も勝たず」(幣帚自臨伝 巻二 居合八極変(いあいはっきょくへん))
・自分も勝たず人も勝たない。

  (あい)は互いに向かい合うことであり、(あう)というのは出会って一つになることです。自分も勝たず人も勝たず、双方に得るところがあって平和に治まることを「全処(ぜんしょ)」といいます。全処とは全てにわたってよいことです。この全処が「相合」の一番重要なところです。

 道を天に求める者(自然の道理に合った正しい道に従い、自分勝手な生き方をしない者)は、自分の身分や能力に過ぎることはしません。ですから裕福であってもぜいたくを尽くすことがありません。この結果貧しい者が恨むこともないのです。恨みも憎しみも自分が招き自分が促しているのです。恨みと憎しみは乱の基です。これを知って合体一和の道(=一緒に一つの平和な世界を創ること)を求めることです。自分が使って余れば人に施して艱難を救うべきです。(片山流の教え/居合八極変
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(30)虎はいつも繊細に爪を磨ぐ。

虎は常に至微を磨ぐ」(幣帚自臨伝 巻二 居合八極変(いあいはっきょくへん))
・虎は常に繊細に爪を磨ぐ。

 虎掻kosōとは虎が爪を磨ぐという意味です。虎はこの上なく強い獣で、いつも繊細に爪を磨ぎます。虎はこのように備えているのです。善政というのは、まず細民孤独(貧しい者、身寄りがない者)から行うべきで、恵まれた武人が初めに務めを果たすべき相手はこのような者たちです。寸sun(約3cm)をたわめて尋 jin(約1.8m)を直し、蟻を防いで堤を完全なものにする。いずれも小さな繊細なことが大きな結果を生む例えです。

 至微を慎む(=極めて微細なことを用心する)ことが虎掻の一番重要なところです。世間の風習を真似て、この位の事はよかろうと、咎める人がいないのを幸いに悪事を密かに行ってはいけません。足の小指の爪だけでも、痛めば歩けず、その日の仕事はできません。至術(=最高の術)は戯れな勝負はしないものです。(片山流の教え/居合八極変
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(31)高尚に過ぎれば世間から外れる。

高遠に走せば世外の人となる」(幣帚自臨伝 巻二 居合八極変(いあいはっきょくへん))
・高尚で遠大に過ぎれば、世間から外れた人となる。

 波は潮の干満に従って押し寄せます。崖の高さを超えて打ち寄せた波は、崖の上の窪みに溜まって海に戻れず死水となります。武人も世間の程度に合わせて行動しなければ、だれも話を聞かなくなります。難しいことを難しいままに話すのは、宝を捨てるようなものです。自分の能力をわきまえ、人の能力を測って行動することが重要です。

 自分の能力をわきまえず、高遠(=高尚で遠大なこと)に過ぎれば、世間から嘲笑されて結局は世間から外れた人になってしまいます。これでは人を導くことができません。堅い物は柔らかくし、辛い物は甘くして幼児を養育するようにしなければいけません。高遠なことばかりを言うのは、まだ自分自身が体得していないからです。自分自身が体得しないものを世間の人に示しても、誰も信じることはありません。達人はうまくその場所にふさわしい程度で物事を行います。片山流の教え/居合八極変
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(32)浮舟を精神の中心とする。

浮舟を以て中心の霊となす」(幣帚自臨伝 巻二 居合八極変(いあいはっきょくへん))
・浮舟を以て魂魄の中心とする。

 「浮舟」(うきふね)とは、水上に浮かんだ積み荷のない小舟を意味します。自分勝手な考え、よこしまな思いを捨てた魂魄(精神)を例えたものです。空の舟は、必要な時に必要な荷物を積んで用を果たすことができますが、すでに荷物を積み込んだ舟は、必要な時に必要な荷物を積めません。このように、すでに邪(よこしま)な思いで満たされた心は、必要な時に大事な思いが入る余地がないのです。

 物事を為す時、人の心は(=満たされている状態)になりますが、すでに何かで満たされてしまった心は、何も入ることができません。武人が邪念や雑念で心を満たさないという事は、必要な時に心を必要なもので満たすためです。満たされているものは満たされておらず、満たされていないものがよく満たされる、という訳です。
普段に仕損じが多い者は、“浮舟”を魂魄の中心としていない者です。つまり、邪念や雑念で心を満たして注意を怠っている者です。心を「浮舟」にし、必要な時に正しい判断ができる心のゆとりを持つ者が、仕損じが少なく、変(=事件、事変)にもうまく対応できるのです。(片山流の教え/居合八極変
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(33)待てる人は時期を知る。

待気あるは時を知るもの」(幣帚自臨伝 巻二 外物(とのもの))
・待気あるのは時を知る人

 打落(うちおとし)とは、打ち交わった時、敵が自ら落ちることです。敵と打ち合ったとき、向かってくる敵を避けて自分が道を異にすれば、敵は自ずと転落します。つまり自分も殺害の勢いをもって対応するのではなく、自分は自分の戈(ほこ)止(やむ)之(の)道(みち)(自然と争いがなくなる方法)をもって、敵の殺害しようとする勢いを避けるのです。そうすれば、敵はおのずと敗れ去ることになるのです。

 「勢い」が余るものは、みずからそれを控えめにすることが大事です。それを理解しない者は勢いのままに、小さな子供が出入り口に向かって速く走るようになるのは、全く残念なことです。「勢い」の本質を知っている者は、満ちるものは自然と満ちさせて、過ぎたものは控えめにとどめて、すばやく対応して速やかに平穏な状態に帰ります。対応できないほどの大きな障害があっても、ものごとの移り変わりは早いものだと心得て、じっと待つことができる人は、真に時期を知る人はないでしょうか。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(34)正も邪に勝てない日もある。

正も邪に得勝たざるの日ある(幣帚自臨伝 巻二 外物(とのもの))
・正も邪に勝つことができない日もある。

 鷙鳥(しちょう)とは、他の鳥を攻撃して捕食する猛禽のことです。が攻撃しようとするとき、鳥たちはひれ伏して逃げ隠れます。これと同様に、敵が猛威を振るうときには、礼を深くして平伏してこれを避けることが賢明です。道はこの中に伸びており、勝ちはその中にあります。

 なぜ平伏して避けるかについては、(積極的、能動的、上昇する性質)も時には下ることがあり、(消極的、受動的、下降する性質)も状況が変われば上ることもあります。まったく一定の法則はありません。正しいことも邪悪なことに勝てないこともあるのです。それを知らずに無理矢理に勝とうとするのは時期を知らないことになります。
 懸命に防ぎ避けても、猛威が自分に及んだときは礼儀を厚くし謙虚に彼を諭すことです。彼が受け入れなければ、ますます礼を厚くして、諂うことがなく、身を正しくして自分を失わないようにするだけです。敵の猛威をうまく避けて、うまく自分を守れば、猛威を振るう者は自然に滅びることでしょう。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(35)位(い)とは、人が居るべき場所に居ること。

位(い)とは、人が居場に居ること」(幣帚自臨伝 巻二 位事理(いじり))
・位(い)とは、人が居場所におること

  (い、くらい)とは、人が居るべき場所に居ることです。ほとんどの人は異変に会えば体も動かなくなるものですが、異変に会っても動じないすぐれた人物は、それに見合って社会的な地位も定まってくるように思います。

  進退を迷わないのが(い)です。その場所に上手に居る者は必ず(ごう、強いこと)です。ここでいう剛とは、進退をうまく決断できるということです。進むだけの者は必ず落とし穴に落ちて出ることができず、退くだけの者は援助がなく必ず孤立します。は鍛えなければ得ることはできません。でなければその位置/地位を保つことはできません。
:位置、地位、身分
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(36)事(じ)とは、異変が様々に起こるもの。

事(じ)とは、変の種々起こるもの」(幣帚自臨伝 巻二 位事理(いじり))
・事(じ)とは、異変が種々に起こるもの

  事(じ、こと)とは、現象や出来事の意味で、異変が様々に起こるものです。これらは事前に対策を講じて阻止できるものではありません。うまく対応しなければ、思わぬことが生じて、安易な事も難儀に変わります。

  変化が尽きないのがです。うまく物事に対応する者は必ず(ちゅう)をもって対応しています。とは、極端にならず偏らないことで、過不及(かふぎゅう)が無いという意味です。とは過ぎること、多すぎること、不及とは及ばないこと、足らないことです。不及の者は能力が足らず対応できません。過ぎる者は特殊な方法を好んで、新たな異変を起こします。したがって物事を極端にならず偏りなく行えば、異変を起こすことはありません。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(37)理(り)とは、筋道が通っているもの。

理(り)とは、筋道の差(たが)わずして始めより終りまで通りしもの」(幣帚自臨伝 巻二 位事理(いじり))
・理(り)とは、筋道が異ならず始めから終りまで通っているもの

  理(り)とは、道理や物事の筋道が初めから終りまで通っていることです。異変は様々な理由から様々な形で表れますが、細かく分割してもそれぞれに筋道が通っているのがというものです。

  正(正しいこと)と邪(正しくないこと)を間違いなく判断するのがです。物事をよく決断できる者は必ずの心で行っています。他人を無視して、自分本位の者はその行いに信念がなく、異変を終息できません。他人を軽蔑する者は、その行いに人を侮辱する気持ちがあるので、知らず知らずに遺恨を招きます。自分の中に規範がなくなった時、自分の中にが交じり合うことになります。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(38)刀を速く振るには「手の内」を緩(ゆる)ませる。

 疾き事は掌中の甘(あそ)ばん事を修練すべし(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら))
・刀を速く振るには、掌中を緩ませることを修練すること。

  出合頭「であいがしら」とは相手と出会った瞬間のことをいいます。
敵に切り込むにも法則があれば、敵の刀を受けるにも術があって、「剛*(ごう)」と「中正**(ちゅうせい)」をもつ者が勝利を得るのです。敵と出会ったとき、敵に切り込みたいと思う者は、気持ちを強くしてその場を逃げず、敵が躊躇している処を攻撃すれば成功しない事はありません。切り込む者は刀を持つ手を伸ばそうとしますが、伸ばしても刀の速度が速くなければ場は過ぎてしまいます。

  刀を早く振ることを望むなら、手の内が遊ぶことを修練するべきです。遊ぶとは握り詰めないことです。握り詰めると余分な力が入り、押して切る形(押切「おしぎり」)だけになり、兜の鉢を割るほどの勢いが出ません。刀が速くなければ、向かって来る者は一気に来て退く者はいません。「手の内」が悪く刀が伸びなければ、「ものうち」が届かず大きな仕損じになります。これらは理屈ばかりに縛られて、考えだけに捉われて身体が不自由であるのです。普段からよく稽古をしておかないと、いざというときに無駄に心を動かすだけで体が動かず、間が外れて犬死するものです。
*:強い気持ちをもって決断できること。
中正**:偏らずに正邪の判断ができること。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(39)敵を退ひきみにすることが追いかける利点。

敵を退身(ひきみ)にするぞ、これ王威(おい)の徳なり」(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら))
・敵を退身(ひきみ)にすることこそ、追い掛ける利点である。

  刀を受ける者は、敵の様子を見定めて、撃って出るばかりの顔つきで、敵の落ち度に付け込んで進み出て追いかければ、敵は身を引いて無駄な刀を振って、顔面に致命傷を受けて夢見る心地で負けるといいます。敵を「退身」(ひきみ‐身を引くこと)にすることこそ追いかける利点です。「退身」にするというのは、前足は蹴ったように浮き、後ろの足は居付いて役にたたない状態をいいます。

  刀を受ける者の進み方も、早く出すぎれば必ず右に隙ができて、敵を見て変化しても態勢が定まりません。これらは自分のあるべき姿を忘れて、なすべきことを見失っているので刀を受ける側の負けとなります。つまり守りの崩壊であって「負色」(負けそうな様子)というのはこのことをいいます。ともあれ「勝色」(勝ちそうな様子)というのは、明るい兆しが剣先を作って、すべての者が歩調を合わせて進んでいく事なので、全員の一人一人の表情に異なることがありません。
  たとえ謀られて負色になったとしても、仕向けられた負色は止めることはできません。これを「誘引の不意負」(さそいのふいまけ‐誘い込まれて不意に負けてしまうこと)といいます。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(40)右に隙を作れば、敵の動きは自由になる。

止方右虚(うき)になりて対者(うちかた)の働きに自由なる(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら))
・受ける方が右虚になれば、撃つ方の動きは自由になる。

  刀を受ける者が右虚(うき、身体の右側に隙があること)になれば敵の動きが自由になるというのは、進み出て敵を少しも追うことがないためです。右に隙があれば、利手(ききて、右手)を撃たれてもこれを受け止めることができません。浮くものは上に上がるばかりで、下がるためには気持ちを変えないとできないのです。速やかに敵に応じることが出来ずに負けるとだと知る必要があります。

  だからと言って、右に隙を作ったまま太刀先を敵に向けて押し込めば、利手は撃たれないけれど、敵が変化して太刀を捨てて潜りこんで体を担いでくれば、自分は相手に勢いを貸してしまって易々と転がされるような負け方になります。これは相手の太刀だけに目を奪われた落ち度です。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(41)受け合いとは、鎬を削らせて身に中らないようにする教え。

受け合いといえるものは、鎬を削らするより身に中らざるの教え方なり(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら))
・受け合いというのは、鎬を削らせることにより身に中らないようにする教え

  刀を受けるものが自分のおり場に居て、相手とのかけ引きに応じる時、未熟なため敵にあしらわれて負けるのは論じるに足りません。このような時、備えを完全にして敵を制圧するにはどうすれば良いのでしょうか? 切り掛かれば避けられ、身をかわされて仕損じもします。そうとはいえ、そのまま居ては必ず右手を撃たれてしまいます。また相手の動きに合わせて身を屈めば隙をつかれて鉢割(=頭への攻撃)にも会います。
  およそ受け合い(=敵の刀を受けること)というものは、身体を変化させ太刀を動かせ、敵の刀を自分の刀で受け、鎬を削らせることで敵の刀が自分の身体に当たらないようにする教えです。初めから身を屈んでは、さらに身を沈ませることはできず、身体を変化することもできません。敵の太刀を鍔で受け止めれば、添えた手に敵の太刀が滑ってきます。ただ何となく居場所を下がって「臥龍」の業で応じても、間合いは遠く、眠らせた切先に油断が生じて却って敵を誘い出すことになります。敵の刀を自分の刀で受けて、敵の刀が自分の身体に当たらないように、基本のとおりに進むべきです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(42)「侮(あなど)りの負け」とは、相手をあなどって備えが粗雑になること。

兄侮負(あなどりのまけ)といへるは相人の未熟なるを子に見なして自己の備えに麁相(そそう)なる」(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら)」
・「侮(あなど)りの負け」というのは、相手が未熟であるのを子供であるように見なして、自分の備えが大ざっぱになること。

 「侮りの負」というのは、相手が未熟であるのを子供であるように見なして、自分の備えが大ざっぱになってしまい、素人のまぐれ打ちに撃ち込まれて冷や汗をかく事態になることで、慎重さに欠けた結果で本人の欠点です。
例え実際にこのような事が起こらなくても、弟子が教える人の癖まで身につけることができるように、古人はきびしく忠告する目的でこの名前をつけました。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Rennis Buchner, Constantin von Richter)

自臨伝(43)「作費(ひをみせる)の負け」とは、隙をみせて敵を罠にかけようとすることである。

作費負(ひをみせるのまけ)といへるは、敵を誘(おび)かんために釁(ひ)を設けて…陥阱(わな)にかけんとするのことなり」(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら))
・「作費(ひをみせる)の負け」というのは、敵を誘い込むために隙をつくって…罠にかけようとすることである。

「作費負(ひをみせるのまけ)」というのは、敵を誘い寄せるために隙を用意して、敵が乗じてきたときに罠にかけようとすることです。古人はこれを無駄な行いをして予期せぬ事態も招くものとして危惧しました。なぜならば、隙を用意したといっても、それは敵に見せるためだけにつくったものでなく、本来ある隙に違わないのです。敵も盲目ではないので、隙を隙として攻撃すればその隙は撃たれるでしょうし、罠として攻撃しなければ、その隙は補修しない限り隙として残り余計な労力がかかり恥じるべき行為です。道理を知っている人は戯れにも隙を作ることはしないものです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(44)「沽名みょうもん)の負け」とは、評判やうわさだけに重きを置くことである。

沽名負(みょうもんのまけ)」といへるは…、名聞外文のみに勤め置き…、覚悟もなき働きをなさん(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら))
・沽名負(みょうもんのまけ)というのは、評判やうわさだけに重きを置き、心構えもない働きをすることである。

沽名負(みょうもんのまけ)というのは、常々務めていても実心から稽古せず、評判やうわさだけに重きを置き、見物人が多い場で手柄を立てて名誉を得ようと心構えもない働きをして、考えも混乱して筋骨を痛めて技術は普段よりも拙くなってしまうことです。このように武の威厳を落とすのは無念で悔しいものです。

黐艘負(いつくのまけ)というのは、何の技術も身についていない身体で何か手段はあろうかと迷い、自分の構えをとることも忘れて敵の刃がどこにも当たるという様子は哀れなものです。下手が上手に及ばないのは左程の恥ではありませんが、卑怯と不覚という穢れた名を残してしまうのは武人にとって如何でしょうか。 達人のありさまというのはこうではありません。

遠慮負(えんりょのまけ)というのは、相手に損得を比べる気持ちがあって撃つべき隙を見逃して相手と恩義を結び、自分への援助を将来に約束することです。誰を欺こうとしてこのような表裏ある行いをするのでしょうか。これは自分の欲を長く得ようとすることなので、味方にも心を留められ、敵にも軽んじられて、誰も将来に応報があるとは思いません。武人の軽薄は将来の害であるとして頼みにする者はいません。互いに犲狼(さいろう、山犬や狼、残酷で貪欲な人)を飼うという思いを持つべきです。後日の害は恐るべきものです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

自臨伝(45)「狐疑負(うかがいのまけ)」とは、猜疑心が固まって自ら敗北することである。

「狐疑負(うかがいのまけ)といへるは…、抓疑邪心の凝るによって、自ら敗れを取りし事」(幣帚自臨伝 巻二 出会頭(であいがしら)
・狐疑負(うかがいのまけ)というのは、猜疑心が固まって自ら敗北することである。

狐疑負(うかがいのまけ)というのは、下手な得意技しか持たず、相手がすぐ近くまで来るのを許してしまえば、気血が滞ってしまい、急に打ち合いが起きても素早く応じることができず、下手な得意手はあっけなく崩されて、変えて使う技もありません。猜疑する邪(よこしま)な心(相手の行動を素直に理解せず疑うこと)が高じて自ら敗北をとることは古来から事例の多いことです。常に邪は正に勝たないという証拠です。

引気負(ひけのまけ)というのは、手練得術は相手よりはるかに優れているのに、地位の低さや相手を知らない迷いによって、相手の勢いに自分の持前のよさを奪われて臆病神が先立って相手の虜になってしまうというのは、剛をもって守らなかった結果です。古人は戒めとして「剛臆一紙を隔つ」とも言い残しており、これは今少しでも退かなければいい勝利が得られたものをと、残念なことだと評しています。

握殺負(りきみのまけ)というのは、武人の家に居りながらその道に精通せず、生まれながらの強い力だけを頼りにして、稽古修行に励む仲間を嘲り、今まさに勝負を決する時にはあれこれと荒言を吐いても、いざ敵を相手にする日になると、頼みにする力は力みとなって、進退浮沈の体の動きもままならないことである。盗賊に錠を切られた心地というのは、頼みとする唯一の物が役に立たないことをいうのでしょうか。手に提げた太刀を握り殺して、歯ぎしりするのは本意ではないはずです。
(提供;和田雄治, Costantino Brandozzi, Constantin von Richter, Draven Lee Powe)

 

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